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翻弄されつづける島民達
明治・・・島民の酒から政府の酒へ

明治時代になると、政府は税源確保のために基盤整備を行ないましたが、当時の奄美大島では、焼酎は身近なものであり、主婦が味噌や醤油などと同じように自宅で造って、自分達で消費するものでした。(商品化して売るという感覚ではなかった)

明治31年(1898)、政府は税収確保のため、自家製造を中止させ、集落毎の共同醸造所の設備を推奨しました。一時は222件の免許が交付されましたが、零細業者の場合は動きが掴めず、税収管理が難しくなったので、優良業者の保護育成が必要との判断から、次々に免許の縮減が断行され、明治44年(1911)には、7名の免許業者を残すのみとなりました。

大正・・・戦争による原料不足

大正3〜11年(1914〜22)には再び、次々に新しい製造免許が付与されるようになりました。しかし、郡島内の需要を全量 賄うことはできず、4分の3は沖縄(泡盛)、本土(甘藷焼酎)からの移入に依存する状態でした。

その後、度重なる戦争によって入手できる原料は少なく規制され、供給体制が崩れていきました。そのため、戦時中からアメリカ軍政下の時代に至るまで群島内では、黒砂糖を含む様々な原料を用いた酒が密造され、流通 し、愛飲されていたといわれています。

新しい黒糖焼酎の誕生!
昭和28年(1953)12月の奄美群島日本復帰後、特別 の措置として米麹を使用することを条件に奄美群島にのみ黒糖焼酎の製造が認められました。黒砂糖を原料として焼酎が製造されていた実績が認められたのです。 世界の蒸留酒の中で、糖類を原料とする酒類は「ラム酒」に該当し、黒糖焼酎は本来の焼酎の概念からは外れていました。復帰当時の酒税には相当な開きがあり(糖類を原料とする酒は税金が高い!!)、奄美群島の製造者を保護するために、米麹を使う条件で、黒糖焼酎を乙類焼酎とする特別 の配慮がなされたのです。
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