俊寛の像
 このページでは酒にまつわる話や、いろんなエピソードなど書き綴っていきたいと思います。
     
VOL30:喜界島の昔話・伝説 其の二 (H22.7.25)
         VOL.1

 奄美諸島や薩南諸島にはさまざまな平家伝説が残されています。喜界島にある雁股の泉は、源為朝が島を確認するために放った雁股の矢を抜いた跡から清水が湧いたという伝説があります。「喜界島古事記」によると為朝が島に上陸した際、機織している十八歳くらいの乙女が迎え、夢の中で神様が「為朝が島に来るので丁寧に迎えるように」と告げられたそうです。やがてその乙女は為朝の子供を宿し、その子孫が大島にいるとされています。似たような伝説は沖縄県与那国島にも残されており、為朝が沖縄に逃れて大里按司の娘を娶り、生まれた子供が舜天王となったという伝説がありますが、その伝説が喜界島に伝承された可能性があります。昔は話が島々を渡り歩き、その土地の伝説として定着した例は珍しくありません。弓矢を放ち国土を発見し、神託により為朝来島を知ったという伝説は神秘的であり、シャーマンが語り継ぐ神話として最適のだったのかもしれません。
      VOL.2

 喜界島を目指した平家落人は志戸桶という所に上陸しました。その浜には「平家上陸の地」と記す石碑が建てられています。志戸桶に上陸した後、彼らは伊実久に廻り、伊実久の上の森に城を築きました。その土塁は現在でも残っており七城(ナナジョウ)と呼ばれています。別名「平家森」とも呼ばれ、早町の後方にあって早町港から来襲する源氏に備えた砦と伝えれています。そこには「七城の鬼女」という伝説が残されています。平家の落人が泊港に上陸した際、七城の跡で頭に布を被り、機織をしていた女性がいました。平家の人を挨拶して出迎えた際、布を被ったままおじぎをしたところ「これは無礼だ、布を取りなさい」と言ってみたものの女性は取る気配もなく、部下の武士がいたずら半分で女性の後方から布を取ったところ、頭部の両側に3センチほどの角が生えていたといいます。昔の書物によると喜界島は鬼界島と書かれており、昔は文字どおり鬼が住んでいたと言われていました。
       VOL.3
 喜界島の湾というところに僧俊寛の銅像が建っています。この俊寛は平安時代後期の真言宗の僧。村上源氏の出身で、木寺(仁和寺院家)の法印寛雅の子。別の呼び名として、僧都と呼ばれる位の名を付け俊寛僧都(しゅんかんそうず)などとも呼ばれていました。後白河法皇の側近で法勝寺執行の地位にありました。安元3年(1177年)、藤原成親・西光らの平氏打倒の陰謀に加わって鹿ヶ谷の俊寛の山荘で密議が行われましたが、密告により陰謀は露見し、俊寛は藤原成経・平康頼と共に鬼界ヶ島(喜界島以外の説もあります)に流されました。これが「鹿ケ谷の陰謀」と言われています。「平家物語」によると、鬼界ヶ島に流された後の俊寛ら三人は望郷の日々を過ごし、成経と康頼は千本の卒塔婆を作り海に流すことを発心しますが、俊寛はこれに加わりませんでした。やがて、一本の卒塔婆が安芸国厳島に流れ着き、これに心を打たれた平清盛は、高倉天皇の中宮となっている娘の徳子の安産祈願の恩赦を行いました。 翌安元4年1178年に恩赦の船が鬼界ヶ島にやって来ましたが成経と康頼だけが赦され、俊寛は謀議の張本者という理由から赦されず島に一人とり残されました。俊寛は絶望して悲嘆に暮れました。 翌安元5年(1179年)、俊寛の侍童だった有王が鬼界ヶ島を訪れ、変わり果てた姿の俊寛と再会しました。有王から娘の手紙を受け取った俊寛は死を決意して食を断ち自害しました。それから後、有王は鬼界ヶ島より俊寛の灰骨を京へ持ち帰ったという事です。
[参考文献]琉球の伝承文化を歩く3(三弥井書店)
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