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VOL46:奄美の偉人 柏有度物語(H24.10.29)

 
現在、奄美の基幹産業として黒糖作りが行われていますが、ご存知のとおりその昔、奄美には黒糖地獄と言われた時代がありました。そんな暗い時代の中で黒糖製造の発展に尽力した人物が居ました。その名を柏有度と言います。
 

  効率良く糖汁を絞り出すことに成功

 有度は1776年頃、奄美大島赤木名に生まれたとの記録が残っています。その時代は薩摩藩による島民支配が行われ、まさに奴隷のように黒糖生産に従事させられていました。それはやがて家人制度(ヤンチュ、ヒダ)を生み出し、さらには島妻制度と言われる女性の人権を無視した施策も行われました。そのような時代背景の中、有度は黍横目(きびよこめ)という役を任されていました。黍横目とは与人という間切(行政区画)の総括者の補佐役にあたると共に、砂糖黍(さとうきび)担当者でもありました。砂糖黍はそれから遡ること100年位前、直川智(すなおかわち)により島内に広められ、製糖技術も伝えられてはいましたが、まだまだ原始的なな製造技術でした。黍横目であった有度は、砂糖生産の能率向上は、原料の黍からいかに多くの糖汁を搾り取れるかが重要であると常々考えていました。当時は木製の砂糖黍圧縮機が糖汁の採取に使われており、それを鉄製に変えたら効率は上がるだろうと考えたのです。(左図参照)

 有度は薩摩に行った事があり、また中国と交流のあった琉球にも行った可能性があるので、鉄の加工については可能であっただろうと推測されます。そしてついに1808年に製糖用鉄輪車を発明しました(大島代官記より)。それは有度が32歳の頃でした。彼の業績は、日本糖業史(樋口 弘著)に取り上げられ、更に、1887年(明治20年)には、当時の農商務大臣・黒田清隆より、追賞授与として一金弐拾円を贈られています。

   薩摩藩の役人であり、あらゆる分野に精通した人物

 有度が普通の薩摩の役人と違うところは、黍横目として文官的役人であるとともに、科学・工学・鋳造等に詳しい技術系役人でもあったという事です。漢籍・漢詩等の学問に通じ、時には自家の庭園に薬草を植え、島の果実類を繁殖させ竹林を自ら養い成功させ、島の発展に貢献しました。奄美大島の知名瀬という所に住み、薩摩や琉球と交流を持ちながら知識・技術を習得したと考えられます。その根拠となるのが名越佐源太(なごやさげんた・薩摩の文化人)の著した「南島雑話」の中の一説です。それによると、「有度という者は、大島に珍しき雅人にて、俗の風はなれ、書に親しみ又は他人の為に、砂糖車、木口車を工夫作出し、又喜界にも御用にて下り、作り方指南し、珍敷(めずらし)き草木を見出し、自宅に移植せり」と記載されています。薩摩の圧制が厳しい時代の島役人なので、必ずしも島民サイドの人間であったとは言えませんが、少なくとも島民を苦しめるような人物ではなかったと言えるでしょう。

   志半ばにして没す

 奄美大島史によれば、柏有度は、「文政の頃上鹿(鹿児島へ上る)の途中大風に遭い唐国に漂着せり、三年の後帰島す」とあります。丁度、有度が40〜50歳くらいの頃です。そして1833年57才のある日、彼は名瀬に出張するため、小舟に乗り名瀬に行き、その帰途に嵐に遭い船は沈没、帰らぬ人となりました。島の発展のため尽力した有度の功績は評価され、彼の墓には、農商務大臣より贈られた一基の灯篭が今でも残されています。

↑鉄と木材を使用した圧搾機   ↑馬の力を利用して作業している風景
★[参考文献]… 南島雑話 (名越 佐源太)
奄美大島史(坂口 徳太郎)
大奄美史  (昇 曙夢)
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