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VOL54: 徳島県神社庁の戦没者慰霊祭(H27.2.22)

 平成27年2月6日、喜界町で徳島県神社庁が主催する「海軍航空基地戦没者慰霊祭」が執り行われました。徳島県神社庁では、毎年各地で戦没者慰霊祭を行っており、喜界島で行うのは今回が初めての事です。
     (慰霊碑の碑文より)

喜界島海軍基地は、昭和19年(1944年)国土防衛の最前線基地として拡張整備され、7月海軍巖部隊が常駐することになった。翌20年、米軍沖縄上陸後は、戦争遂行上の最重要戦略基地として、連日連夜にわたって米軍機の猛爆撃を受けながら、特攻機の整備出撃に多大の貢献をした。しかし、その間莞爾として沖縄に向け飛び立ち、遙か征って帰らざる壮途につかれた若き勇士たちをはじめ、巖部隊員で特攻機の出撃準備中の整備兵防空防衛の任務遂行中の砲台員等で戦死された人達も多かった。ここに基地開設50周年にあたり、これら戦死者の霊を慰めるとともに、永久の平和を祈念して慰霊碑を建立するものである。
  開催のきっかっけは、この慰霊祭に毎年20年ほど参加している佐藤昭人さんの働きかけによるものです。佐藤昭人さんは国選定の阿波藍製造無形文化財、国指定の卓越技術者・現代の名工とされており、奄美市名瀬の岸田恵光さんとともに、2年前に初めて喜界島を訪れた佐藤さんが、喜界島にも戦没者慰霊碑があることを知り、徳島県神社庁に開催を提案したという事です。

(左画像は食事会で挨拶する佐藤昭人氏)
佐藤阿波藍製造所のホームページはこちら

 翌日の慰霊祭を前に食事会が喜界島酒造の工場内で行われました。遠方からの客人を交え、飲めや踊れでにぎやかに宴は盛り上がりました。喜界島酒造で大勢のが客人をもてなす時はこの場所が良く使われます。
 喜界島の「海軍航空基地戦没者慰霊之碑」は1994年に建立され、戦没者の遺族や関係者が訪れますが、ここで慰霊祭が行われるのは約5年ぶりの事です。
この日は喜界町の川島健勇町長も参加し、玉串を捧げました。徳島県神社庁の金倉文雄庁長は「70年という長い年月が過ぎ、尊い犠牲の中で平和な生活が送れることに語りつくせない感謝をする。次の世代にも語り継いでいかなければならない」と話されました。
   (戦闘指揮所跡 現地案内板より)

大東亜戦争(第二次世界大戦)遂行のために形成され、建造物として残されたものである。地域の歴史資料として、戦争という史実を通して日本の加害や被害の跡を実物を以って確かめてもらうために、戦争遺跡という視点から戦争を語り継ぐ具体的な建造物として保存するものである。喜界島の飛行場は海軍航空基地で、昭和20年米軍が沖縄上陸後、戦争遂行上の最重要基地として連日連夜にわたり米軍機の猛攻撃を受けた。薄暮本土から飛来し、翌日払暁沖縄へ飛び立つ特攻機の整備をした飛行場で、この建物の中で戦闘の指揮をしたと言われている。
 喜界島の基地は第二次大戦中、本土から沖縄戦線へ向かう中継基地として重要な役割を担っていました。戦況が激しくなり、徳之島にもあった特攻基地が使えなくなり、爆撃を受けながらも最後まで特攻兵を送り出しました。島の中里地区にある「戦闘指揮所跡」は軍事的な判断、指揮命令が行われていた場所で、特攻隊員も出撃前はこの場所で作戦指示を受けていたと伝えられています。ちなみに国内に残っている指揮所跡はここだけです。
(喜界島の城跡・史跡MAPはこちら)

 終戦を迎える8月13日までに特攻した海軍の特攻兵は19名で、最初の特攻(3月27日)に特攻した海軍の航空機「彗星」に搭乗していたのは徳島県出身者だったと記録されています。今回、徳島県民の方々による慰霊祭が行われたのは、若くして散っていった戦没者の魂に導かれたのかもしれません。
恒久平和への願いを込めて・・・
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