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島津の圧政の中で
薩摩の圧政に苦しめられて

西暦1609年頃、薩摩藩(現在の鹿児島県)の島津氏が琉球(現在の沖縄県)を支配すると同時に、奄美も支配下に置くようになりました。島津藩は藩の特産品として奄美の人々に黒糖生産を強制しました。生産された黒糖は島津が支配、島民が黒糖で焼酎を造れる筈もなく、鍋に残った黒糖の洗い汁を発酵させたという説もありますが、大部分はサツマイモやソテツの実などで焼酎を造っていたようです。その後約260年間奄美は島津の統治下に置かれ、その頃に島唄も生まれました。
 

   仇ぬ世の中に 永らへてをれば 朝夕血の涙 そでどしぼる
 (奄美島唄)
 
(不仕合わせなこの世の中に長生きしておれば、憂きことのみ多く、朝夕血の涙で袖しぼるのみ)島津統治下で虐げられた民の唄です。

江戸末期の奄美

江戸末期の奄美について詳しく記述した人物に名越左源太(なごやさげんた)という人が居ます。彼の書いた書物『南島雑話』という書物には、米、甘藷(かんしょ)、椎の実、蘇鉄(そてつ)の実、栗、桑、百合の根、南瓜(かぼちゃ)など様々な原料がもちいられて、焼酎造りが行なわれていたことが記されています。その当時、黒糖は高級品であり、島の人々も自由に食する事はできなかったようですが、「留汁(とめじる)焼酎として砂糖黍(キビ)をすました汁を入れることあり、到りて結構なり」と示されているように、全く使用されなかったわけではないようです。これが黒糖焼酎の原型だと思われます。
 黒糖の値段が下がってくると、薩摩藩は白糖製造を計画します。
薩摩藩は、英国人の技師2人(ウォートロス、マッキンタイラー)を招聘し、奄美大島の4箇所に白糖製造工場を建設しました。
 瀬留(龍郷町)、金久(名瀬市)、須古(宇検村)、久慈(瀬戸内町)の4箇所に建設されましたが、台風の被害や燃料の薪の不足等が原因で5年以内で閉鎖されました。その跡地には今でも使用された耐火煉瓦(COWEN、STEPHENSON等の銘)や建築用の煉瓦(凹みのある)の破片が残っています。

蒸留器の登場

「南島雑話」に描かれている蒸留器に「ちんたら蒸留器」と呼ばれているものがあります。鉄釜が熱くなると「ちんちん」と音がし、鉄釜で熱せられた焼酎は気体となって樽へ立ち上り、冷めると液化して樽に付き、筒の中を「たらたら」と流れ出ていきます。
ゆっくりダラダラやる様を「ちんたら」と表現する事もありますが、これが語源になっているのかもしれません。(あくまでも推測ですが)


※名越左源太(なごやさげんた)「南島雑話」より画像引用
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